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ヨハネによる福音書講解説教も最終回となりました。登場するのはイエスの一番弟子と言われたペトロです。彼は「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ福音書26章35節)と豪語しながらも、いざイエスが捕らえられると、手のひらを返したように態度が一変しました。聖書にはこう書かれています。
「門番の女中はペトロに言った。『あなたも、あの人(イエス・キリスト)の弟子の一人ではありませんか。』 ペトロは『違う』と言った。」(ヨハネによる福音書18章17節) そして「外に出て、激しく泣」(マタイ福音書26章75節)いたとあります。
何とも情けない限りですが、人にはこうした挫折の経験が必要かもしれません。と言いますのは、人はこうした挫折の経験を通して自分を知り、罪を悔い改め、神を仰ぐ者となるからです。イエス・キリストはこうした人の罪を贖うために十字架の死を遂げられました。
死から復活したイエス・キリストに出会ったペトロはどのように変えられたのでしょうか? 本日の聖書箇所、21章1節からをご覧ください
「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現わされた。」(21章1節)とあります。この湖の名はガリラヤ湖でしたが、ユダヤを植民地支配したローマ帝国はティベリアス皇帝の名にちなんで湖の名を変えさせました。これだけでもユダヤ人の苦難の歴史を垣間見ることができます。
「シモン・ペトロが『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは『わたしたちも一緒に行こう』と言った」(3節前半) イエスが十字架の死を遂げられたので、弟子としての自分は終わったと思い、都エルサレムから故郷ガリラヤへ帰り、生業である漁業の生活に戻ったのでしょう。「しかしその夜は何もとれなかった。」(3節末)とあります。ベテランの漁師でさえ、現実は厳しいものです。
そこに驚くべき奇跡が起こりました。「既に夜が明けたころ、(十字架の死を遂げて葬られた)イエスが岸に立っておられた。」(4節)のです。彼らは自分の眼を疑ったに違いありません。しかし間違いなくイエスが来られたのです。
「イエスの愛しておられたあの弟子(ヨハネ)がペトロに『主だ』と言った。
ペトロが真の弟子/あるべき人間となるために、もう1つ大切なことが残されていました。それは、「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。』と言われた。」(15節前半)という質問に対して「はい、愛します」と応答することです。
イエスはペトロに3回同じ質問「わたしを愛しているか?」をされました。日本語ではどれも「愛」ですが、イエスが実際に使われた言葉は1つ目と2つ目は「アガパオ―/神の無条件の絶対愛」でしたが、3度目は「フィレオー/人間の条件付きで限られた愛」を使われました。これはイエスが人間の愛のレベルまで要求を下げたことを意味します。これがまさに神の憐みと赦しです。
「わたしの羊を飼いなさい」はペトロを弟子として認めたことを意味します。
「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると(中略)行きたくないところへ連れていかれる。」(18節) 失っていく健康や地位や人を嘆く生活ではなく、神が残してくださったものを恵みとして感謝し、天国を待ち望む幸いな生活です。
「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現わすようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」(19節前半)
わたしたちもペトロに倣い、神を愛し、イエス・キリストの赦しをいただき、神の恵みのあふれる幸いな人生を歩ませていただきましょう。
後奏 https://youtu.be/fpKST8bK2ks
【付録】 高円寺寺教会メンバーによる演奏
賛美歌「天には御栄え御神にあれや」 https://youtu.be/exVOtUkXDp4
P.A.Yon 作曲「冬の野に咲きそめける」 https://youtu.be/YSLFcpljukE
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